現実逃避の何が悪い

小説だって若者の読み物だと過小評価されていた時代はありました。ならば、ゲームや漫画やアイドルだっていつかは大衆に認められるはず。微力ながら、そういうお手伝いができればよいと思っています。

細田守の「ふたつの世界」

「ポスト宮崎駿」と謳われる細田守監督。彼が描く絵は、手書き感とCGをうまく混ぜ合わせて美しい表現をなしていると思われます。しかし、僕は『おおかみこどもの雨と雪』(以下、『おおかみこども』)と『バケモノの子』(以下、『バケモノ』)にはどうも違和感を隠せなかったです。なぜ花は雨が狼の世界に生きることを拒んだのか。なぜ九太は人間界に戻ろうとしたのだろうか。どうしてもそのふたつが腑に落ちなかったのです。僕は答えを求めて、ユリイカ細田守特集を購読しました。その批評のなかのひとつ「石岡良治×さやわか×中田健太郎」のある文章を読んでピンと来たのである。

 

最終的にはフィクションは人間の満たされない胸の穴を補うことができるんだ、という見方ができるように思われます。

 

一朗彦が闇に落ちた、というのはテーマ的には「アニメーション的なものに囚われてしまって中二病化した男の子」という話として読めますよね。 

 

 細田監督の作品には必ずふたつの世界が描かれます。『時をかける少女』なら「タイムリープする前の世界」、「タイムリープする後の世界」。『サマーウォーズ』なら「現実世界」、「OZという仮想世界」。『おおかみこども』なら「人間の世界」と「狼の世界」。『バケモノ』なら「渋谷」と「渋天街」。上の文章から考えると、前者が「現実世界」、後者が「フィクションの世界」だと僕は思います。以前に『おおかみこども』に出演した菅原文太細田守にこう質問しました。「映画を作ることに意味がないんじゃないか」と。当時、ちょうど震災直後のアフレコになっていたため彼はこのようなことを言ったのでしょう。おそらく、菅原文太自身はその答えを分かっていたのでしょうが細田守を試すためにこう発言したのだと僕は思います。そして、細田監督は迷わずに答えるのです。「僕は意味があると思います。こういう震災みたいなことがあってそういう気持ちもわかるけれど、これからもぜったいに映画を作って楽しいと感じる。そうやって映画を楽しむことに意味がある。」すると、菅原文太は何も言わずにヘッドホンをつけマイクの前に立ったそうです。

 

僕は細田監督ほど物語に可能性を感じている監督はいないと思います。その証拠に、彼の作品は彼の物語論も語られると思います。それが顕著に出ていたのが『バケモノ』だったと思います。九太の心の闇を埋めたのは「父」であり、「バケモノ」であり、「物語」でもある熊鉄でした。同時にそう考えると九太がもう一度人間の世界に戻ってきたのは、それでも人は現実で生きなければならない。しかし現実で補えないことは、「物語」でしか補えないのである、そんなことを細田監督は語っているのではないでしょうか?

 

次回は『おおかみこども』について触れたいと思います。

 

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