現実逃避の何が悪い

小説だって若者の読み物だと過小評価されていた時代はありました。ならば、ゲームや漫画やアイドルだっていつかは大衆に認められるはず。微力ながら、そういうお手伝いができればよいと思っています。

細田守の「ふたつの世界」 その2

花はファザコンだった

 昨日に続き細田守について語りたいと思います。先日もいったように、「現実世界で足りないものを物語は補ってくれる」ということを論じました。この考えで『おおかみこどもの雨と雪』も解釈していこうと思います。

 

 台風の日、雨は森が心配だと言って外に飛び出していきます。心配になって追いかける花。わが子を心配する母親らしい行動です。しかし、僕はやはり花が分からなかったです。おおかみと人間、どちらの道も選べるようにわざわざ田舎まで引っ越してきたにも関わらず花は雨を止めようとするのです。それぐらいの覚悟ならば、何も言わず雨を送るのではないだろうかと僕は思っていました。そういう腑に落ちないところがあって、この作品はあまり好きではないのですが「現実世界で足りないものを物語は補ってくれる」に落とし込んでいきましょう。

 

 花に足りないものは何でしょう?花は崖から落ちて気を失ったときに、夫であるおおかみおとこの夢を見ます。すると、最初はおおかみおとこに見えていたはずなのにその姿は雨へと変わります。雨はもう大人のおおかみだという暗示なのかもしれません。しかし、それだけだとは僕は思いません。僕はここでおおかみおとこが出てきたのは、花が夫と雨を重ね合わせていたのではないでしょうか。もっと言ってしまえば、花はファザーコンプレックスだったのだと僕は思います。序盤の彼との話のときも自分の父の話しかしていませんでした。これは母親よりも父親に思い入れのある証拠でしょう。ということは、花にとって足りないものとは「男」あるいは「父親」だと言えるでしょう。

 

 同作のもうひとつの世界は「おおかみの世界」と語りました。そう考えると何が花の心の穴を埋めたのでしょうか。雨が「おおかみの世界」に生きることを受け入れることで何が変わったのでしょう。「夫」と「父親」に重ね合わせていた雨がおおかみであると認めることで彼女の何が補完されたのだろうか。僕はここで花は初めて二人の死を受け入れたのだと思います。自分の息子は「父親」ではないことを、「おおかみの世界」が教えてくれたのです。彼女も物語に救われるということですね。

 

 細田監督は誰よりも物語の力を信じている。それは本当に正しいのだろうか。次はそれについて語りたいと思います。

 

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細田守の「ふたつの世界」

「ポスト宮崎駿」と謳われる細田守監督。彼が描く絵は、手書き感とCGをうまく混ぜ合わせて美しい表現をなしていると思われます。しかし、僕は『おおかみこどもの雨と雪』(以下、『おおかみこども』)と『バケモノの子』(以下、『バケモノ』)にはどうも違和感を隠せなかったです。なぜ花は雨が狼の世界に生きることを拒んだのか。なぜ九太は人間界に戻ろうとしたのだろうか。どうしてもそのふたつが腑に落ちなかったのです。僕は答えを求めて、ユリイカ細田守特集を購読しました。その批評のなかのひとつ「石岡良治×さやわか×中田健太郎」のある文章を読んでピンと来たのである。

 

最終的にはフィクションは人間の満たされない胸の穴を補うことができるんだ、という見方ができるように思われます。

 

一朗彦が闇に落ちた、というのはテーマ的には「アニメーション的なものに囚われてしまって中二病化した男の子」という話として読めますよね。 

 

 細田監督の作品には必ずふたつの世界が描かれます。『時をかける少女』なら「タイムリープする前の世界」、「タイムリープする後の世界」。『サマーウォーズ』なら「現実世界」、「OZという仮想世界」。『おおかみこども』なら「人間の世界」と「狼の世界」。『バケモノ』なら「渋谷」と「渋天街」。上の文章から考えると、前者が「現実世界」、後者が「フィクションの世界」だと僕は思います。以前に『おおかみこども』に出演した菅原文太細田守にこう質問しました。「映画を作ることに意味がないんじゃないか」と。当時、ちょうど震災直後のアフレコになっていたため彼はこのようなことを言ったのでしょう。おそらく、菅原文太自身はその答えを分かっていたのでしょうが細田守を試すためにこう発言したのだと僕は思います。そして、細田監督は迷わずに答えるのです。「僕は意味があると思います。こういう震災みたいなことがあってそういう気持ちもわかるけれど、これからもぜったいに映画を作って楽しいと感じる。そうやって映画を楽しむことに意味がある。」すると、菅原文太は何も言わずにヘッドホンをつけマイクの前に立ったそうです。

 

僕は細田監督ほど物語に可能性を感じている監督はいないと思います。その証拠に、彼の作品は彼の物語論も語られると思います。それが顕著に出ていたのが『バケモノ』だったと思います。九太の心の闇を埋めたのは「父」であり、「バケモノ」であり、「物語」でもある熊鉄でした。同時にそう考えると九太がもう一度人間の世界に戻ってきたのは、それでも人は現実で生きなければならない。しかし現実で補えないことは、「物語」でしか補えないのである、そんなことを細田監督は語っているのではないでしょうか?

 

次回は『おおかみこども』について触れたいと思います。

 

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真理を追い求める人にはテストなど必要ない

genjitutouhi.hatenablog.com

現在ジャンプで連載中の漫画『左門くんはサモナー』というギャグマンガがあります。同作品は、学校が主な舞台で登場人物も高校生です。あらすじについてはあまり触れませんが、ある意味学校文化のアンチテーゼになっている漫画だと僕は思います(笑)。

 

この作品のなかで、悪魔の力を借りて、超頭良くなる人物がいます。彼は結局、テストを見て「私が求める真理はここにはない」と一言言って去っていくのです。本来学びの場である学校が、本当の意味で学びたい学生に見向きもされないというかなり滑稽に感じますね(笑)。もちろん高校は大学と違って何かを研究したりする場ではありませんが、学校のあり方について少し考えさせられる場面でした。よくよく考えれば、学校っておかしなことだらけのように思えます。今回は、まさかのギャグマンガで気づかされました(笑)。

 

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