現実逃避の何が悪い

小説だって若者の読み物だと過小評価されていた時代はありました。ならば、ゲームや漫画やアイドルだっていつかは大衆に認められるはず。微力ながら、そういうお手伝いができればよいと思っています。

呂 不韋はニヒリズムなのか。

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 今日は少し皆さんの意見も聞けたらなと思っています。ただ『キングダム』を読んだことのある人にしか分からないようになってしまうことをお許しください。そもそも僕はニヒリズムの正確な意味、使い方もよく理解していないことを念頭に置いてもらうと助かります。

 

 今日、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を見ました。言わずと知れた名作で、人間のエゴをうまく捉えた作品だと思いました。人類に絶望したシャア・アズナブルは地球に隕石を落として、地球の人類を絶滅させニュータイプが統べる世界を作ろうとしました。それに敵対するアムロ・レイはいずれは人類全体がニュータイプになるのだから、それまで待てばいいという考えでした。

 

 僕はこの両者の思想のぶつかりあいが、『キングダム』の秦王嬴政と呂 不韋に似ているのではないかと感じました。呂 不韋は人間とは強欲な生き物だから、金の力で世の中を回せば相対的に戦争は少なくなるという考えに対して、嬴政は人間の本質は優しさにあり、いつかは戦争はなくなるという考えでした。嬴政は戦争をなくすために中華統一を目指すわけです。まるで、織田信長のようですね。ただしその中華統一のためには7カ国を武力で統制しなければならない。戦争のない世界を目指すために、手を汚すのは自分たちの代だけでいいというのが嬴政です。

 

 呂 不韋の考えは現代の資本主義につながると思います。秦国なくして経済は回らない世の中にするという、少しの前のアメリカを思わせる発言も伺えます。シャアは人類より進化したニュータイプをただの戦争の道具にしか使えない地球の人類に絶望し、人類滅亡を目論むわけです。これは完全にニヒリズムだと言えるでしょう。では、人間は我欲を満たす生き物と定義した呂 不韋もある意味では人間に絶望しているニヒリズムと言えるのではないでしょうか。

 

 正直僕は嬴政よりも呂 不韋の考えのほうが正しいと思っています。ただ、そうなると自分がニヒリズムだと言ってしまっているようであまりいい気がしません。そもそもニヒリズムの意味もよく分からない自分です。この話の内容の分かる方、ぜひ皆さんの意見を聞かせてください。呂 不韋はニヒリズムなのでしょうか。コメントお待ちしております。

 

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