現実逃避の何が悪い

小説だって若者の読み物だと過小評価されていた時代はありました。ならば、ゲームや漫画やアイドルだっていつかは大衆に認められるはず。微力ながら、そういうお手伝いができればよいと思っています。

想像力が倫理を決定する

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今日は映画『亜人 第一部ー衝動ー』を見てきました。

 

原作が元々好きで、評判もよかったので少し遠出してきました。ポスターのビジュアルと本編の絵が違っていたので違和感がありましたが、アクションの迫力もあり面白かったです。低予算であの絵なのかなと思ったのですが、3DCGというかなり高度な技術らしいです。これは私の見る目がないのでしょうか……。

 

さて、今回僕が考えさせられたのは佐藤が永井に言ったセリフです。

「亜人が死んだときは大きく残った肉片が再生するんだ。じゃあ、君の首を切ったらどうなるか。君は自分の身体から新しい頭が生えてくるのを見ることになるだろう。そうなると君という意識は2つあることになる。どっちが本当の君だい?」

確かに胴体から首が離れていても、数十秒は意識があると聞きますね。ギロチン処刑とかも死刑囚は最後自分の身体が見られるとか……。まあおそらくこの亜人の設定からすると、頭部が胴体から離れても意識があるうちは再生が始まらないと思います(笑)

 

それはいいとして、僕が言いたいのは佐藤の想像力です。もし佐藤の言うとおり首が離れた瞬間に亜人の再生が始まるとしたら、同じ人間の脳みそが2つできるわけです。そうするとある意味では同じ人間が二人いることになります。しかし、何をもって同じ人間だといえるのでしょうか。おそらく本人からしたら同じ姿形をしている人間がいたら偽者と思うでしょう。

 

これに正しい答えはないと思いますし、考えても無駄だという意見もあると思います。そもそも亜人のような存在はこの世にいませんからね。しかし、よく哲学者や倫理学者がひとつの問題を考えるとき、フィクションを用いて考えたりしますね。たとえば、有名なマイケルサンデルの講義で私が聞いたことある話は

 

「一艇のボートに人が3人いたとします。このボートは遭難してしまい、どの方角にいけば陸地に着くかわからない状態です。何日かたつと食料もつき、3人は栄養失調になります。一人の船員Aが先に餓死しました。そこでまだわずかに息のある船員B,Cは生き延びるためにAの死肉を食べて生き延びました。運よく2人は陸地にたどり着くことができました。さて、この2人は殺人罪で捕まるでしょうか?」

 

という話です。詳しい答えは覚えていないのですが、こういう倫理的な問題を考えるときたびたびこのようなフィクション、物語を例に出して思考を進めていきます。ただ、私が思うこのやり方の問題はこの例の実現可能性が少しでもあるということです。現実に起こりうる可能性は0ではないのです。私が言いたいのはこれでは限界があるのではないかということです。もしもっと大きな倫理問題に直面したとき、このような実現可能性がある命題で考えてきたものでは通用しないのではないか。だから、僕たちは今回の亜人のような絶対にありえないような物語を真面目に考えて新しい倫理観を作り上げていくべきだと思います。確信はありませんが、こういうものに答えが出せるようになれば今中東で起こっている紛争やISによるテロにも何らかの平和的な処置ができるようになると私は思います。

 

あまり共感してもらえないかもしれませんが、日本人が考えるこの素晴らしい想像力をもっと社会的に有効活用できないかつくづく感じます。僕にはこれほどの想像力はありませんが、考えることはできます。きっと何か答えがあると僕は信じています。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。