現実逃避の何が悪い

小説だって若者の読み物だと過小評価されていた時代はありました。ならば、ゲームや漫画やアイドルだっていつかは大衆に認められるはず。微力ながら、そういうお手伝いができればよいと思っています。

杏果は長期休暇させるべきである

 かなり間が空いてしまったが、我が愛する有安杏果が再び窮地に立たされているので久しぶりに更新する。

 

 先日のフォーク村で、昨年に続き再びあの悪夢が蘇ってしまった。杏果が放心状態になりカメラに映らなくなる事案が発生した。原因は歌がうまく歌えなかったことにあると考えられる。その時点で既に今回声が出せなくなってしまった兆しがあったのは容易に想像できる。でなければ、多少音を外したくらいでパニック状態になることはもう今の有安杏果はありえないと私は考えている。それほどに彼女は強くなったはずだ。

 

 ではフォーク村でなぜパニックに陥ってしまったのか。それはきっと、杏果の脳裏に自分が歌えなくなる場面が過ってしまったからだろう。誰よりも歌を愛し、誰よりも歌うことを望んでいる彼女にとって、それは絶望にも値する辛いことだ。そう考えるならば、今回の事件も腑に落ちる。

 

 私ははっきりと断言する。

 

 杏果は長期休暇するべきだ。

 

  今年出た杏果のパンフレットを読んで知っている人も多いと思うが、2016年に彼女が歌えない状況になったのは、年明けの1月だけではない。実は3月にも左耳が一時的に聞こえにくくなった時期があるのだ。移動の際に利用した飛行機が原因で、航空中耳炎を発症したらしい。耳を悪くした直後にももクロベトナムでの遠征を控えていて治療を施しながら移動したようだ。行きのフライトでは何とか耳は持ったものの、帰りで完全に聞こえなくなってしまったようだ。

 

 もちろん耳がうまく聞こえない状態でうまく歌えるわけがない。ドームツアーだけでなくソロコンの準備をしている彼女にとってこれほど悲痛なことはないだろう。杏果のいうとおり、「神様はイタズラずき」なのだ。

 

 このような過酷な過程を経て、あれほど素晴らしいソロコンを成功させたと思うと、もう流す涙もなくなるくらいの感動ものだ。しかし、我々は涙を失ってもまだ泣くことはやめられないようだ。これほど辛いことがあったのだから、もう何もないだろうと思ってはいたが、そうは問屋が卸してくれなかった。そして今回、再び杏果は歌えなくなったのだ。

 

 もはやこのような状況でメンタルを保っていられるのだろうか。今回のフォーク村の件で、杏果は非難の的となってしまった。彼女の精神を「豆腐メンタル」と揶揄する輩など、溶鉱炉に沈めて骨も残らなければいい。この世に微粒子レベルで物体を消す方法があるならば、その愚民どもにそれを実行してやりたい。

 

 まずこの問題は杏果の精神にあるのではなく、身体の問題なのだ。どんなに強く願っても、身体がついていかないのならばそれは不可抗力なのだ。それを察した人間が、たとえ生放送だとしても平静を保っていられるだろうか。杏果の耳や喉が脆弱であることは、認めざる負えないことだ。

 

 これは活動を続けながら治るものではない。ならばいっそのこと、杏果に長いスパンで休養を取らせるべきなのだ。それがももクロにとって、モノノフにとって、何より杏果自身にとってどれほど辛いものかは百も承知だ。しかし、もしこの先何十年もももクロを続けるならばそれは必要不可欠であると私は考えている。

 

 少し話題を膨らませるが、それは杏果だけに言えたことではない。私がメンバーに懸念していることは、彼女たちがももクロに固執しすぎているところだ。ももクロがなくなってしまったら、自分は何者でもなくなってしまう、と思い込みすぎではないだろうか。否、そんなことはない。彼女たちがやってきた行いは、間違いなく彼女たちの血肉となっているのだ。それは、たとえももクロから離れることがあったとしてもなくなることはないのだ。

 

 杏果の話に戻ろう。彼女に関しては歌とも距離を取るべきなのだ。彼女はももクロ以上に歌に執着しすぎている部分がある。でなければ、歌えなくなることにあれほど恐怖を覚えることはないだろう。全く歌うなと言っているわけではない。その繊細な喉とうまく付き合っていけと言っているのだ。つまり歌うことを今までより控えるべきなのだ。ライブの数も減らし、負担を減らすのだ。今までライブをやっていた時間をラジオでも何でもいいから別のことに時間を費やすのだ。

 

 人は何かひとつでできているのではない。たとえ大事な何かがなくなったとしても、別の何かがあるのだ。それほど人間には、特に有安杏果には無限の可能性があるのだ。

 

 だからまずしばらくはももクロとも、歌とも距離を置くべきなのだ。一旦「ももクロとしての有安杏果」ではなく、「一人の人間としての有安杏果」に身を置き、自分にはいろんな可能性があることを再認識するのだ。歌も、ももクロがなくても自分にはできることがある。そのような状態までに持っていくべきだ。そのために2017年を使い切ってもいいと私は思っている。2017年は杏果以外の4人だけで活動するべきだ。

 

 「そんなのはももクロではない」と思う方も多いだろう。そういうあなたに聞きたい。

 

 『ももクロ』とは何か?

 

 5人揃わなければももクロではないのか?ならば、不謹慎ではあるが彼女たちのうち一人が明日急に交通事故で亡くなってしまったらももクロは解散なのか?私はそうは思わない。彼女たちはももクロをずっと続けると宣言した。高城れにはステージ上で死にたいと言った。覚悟とはそういうものだ。何かひとつパーツが取れてしまって崩れ落ちる覚悟など捨ててしまえ。

 

 そもそもももクロが長く続いていく上で我々が忘れてはいけないことがひとつある。彼女たちが結婚し、子供を持つときのことだ。恋愛禁止と植え付けられてしまったアイドルの常識を覆すのだ。

 

 彼女たちはやがて恋に落ち、小さな命を授かるのだ。そうなったとき、5人が5人ではなくなるのだ。タイミングによっては3人になることもあるかもしれない。彼女たちがどれほどのことを考えているのかは定かではないが、少なくとも「子供がほしい」という感情は普段の子供に対する接し方からでも見て取れる。そういった状況を、運営側も考えているはずだ。

 

 ももクロ陣営もいろいろ対処は考えるだろう。少しでも早くメンバー復帰できるように、彼女たちの育児の負担を軽くするなどの補助をすることになるだろう。

 

 私がももクロに期待することは、今まさに日本が抱えている女性の社会進出問題に対する答えを出すことだ。少しスケールが大きいと感じる方も多いと思うが私はアイドルには、ももクロにはそれほどの可能性を見出しいている。「運営」という「社会」がしっかりと育児をサポートすれば、女性は男性と同じスピードでキャリアを積み上げていくことができる。そのようなモデルを、ももクロが提示してくれることを私は熱望している。

 

 たとえ主要な人間が一人欠けたとしても、組織が機能し続ける姿をももクロが世の中に見せつけるのだ。

 

 杏果の長期休暇にはそういった意義も込められていると私は思う。

 

 川上マネージャーの、ももクロ運営の英断を私は待っている。

 

 最後に、これからもももクロが末永く続くことを私は切に祈っている。